真似て慣れる

「学習」とは「学ぶ」と「習う」で、その語源は「真似る」と「慣れる」である。

 

スポーツなどクラブ活動で例えてみよう。
君たちが初めてその種目を始めたときのことを思い出してほしい。まず、先生やコーチ、場合によっては先輩から基本を教わり、皆は言われたとおりに、見たとおりにそれを真似るはずである。これが「学ぶ」という動作である。

しかし、1回教わっただけではすぐに身につかない。そのため、毎日反復して自分の体に馴染ませていく。クラブ活動なら毎日素振りやシュート練習をしている。

 

当たり前だが、誰もがスイングの仕方やシュートの打ち方などを知っている。それでも反復するのは、スピードを上げることや成功率を高めることであり、これが「習う」である。

これは日常の授業や受験でも同様なのだが、よりレベルを高めるために大事な要素が「学ぶ」場合には“読書”、「習う」場合には“無意識”なのである。

というのも、学校の授業では、先生が教科書を用いて例題を解説し、生徒は先生の解答を真似ながら問題を解く。これが、まず基本である。

しかし、この手法は、先生という他人を介在している上、教える内容に関しては先生が主導権を握っていて、決して自分の希望する内容を学習できるわけではない。
要は学校の学習というのは先生、ひいては学校という社会に依存しているのである。「勉強」という言葉に「強いる」が入っているのもそのためではないだろうか。

しかし本来、学習とは自らが望んで学ぶはずである。

では自ら学びたいものを学習するためにはどうすればよいのだろうか。

そこで登場するのが読書である。
例えば、ゲームなどをクリアするために攻略本を読むのも、現在の流行を知るためにファッション雑誌を読むのも、ネットで情報収集するのも文章を読むという点で、全て読書である。

何より、学校でも教科書という本を読んでいるではないか。要は学校の教科書やスポーツなどの技術の真似は読書という行為だけでは不十分なので、先生・コーチから学んでいるだけであり、「学ぶ」の原点は読書なのである。私も読書をして日々新しい知識を吸収しているが、君たちも先生から言われたことだけでなく、自ら参考書を読み、学ぼうという姿勢を持ってほしい。

次に「慣れる」だが、学校の授業で教わったことを、問題集などを用いて演習を積む。解き方は分かっているのにも関わらずに何故反復するのか。それは「分かる」と「解ける」は似ているようで全く異なる言葉であるからだ。

簡単に言えば定着していないからだ。そうでなければ、毎日練習する必要はない。

たとえば、皆は毎日九九を唱える必要があるだろうか。もう誰もがそんなことをしないはずだ。定着しているのだから。

では、どこまですれば定着していると言えるのだろうか。
そのキーワードが無意識である。
例えば、皆がパソコンや携帯ででキーボード・ボタンを打つとき、最初は文字を確認しながら打っていたと思う。しかし、次第に見なくてもなんとなく、この位置にあるんだろうなということを理解して打てるようになる。さらに進化すると、キーボ-ドを一切見ずに画面を見ながら打つようになる。

「てなれたてつき」というのは「手“慣れた”手つき」である。よって、本当に慣れたときは、スピードが格段に速くなっていなければならない。手慣れた包丁捌きというのは、無意識だからこその、あの速さなのだろう。

スピードが速められれば、野球の場合はその空いた時間でよりボールを見極めることができるだろう。サッカーやバスケならば、マークが来る前にシュートを打つことができるだろう。そして無意識になれば、失敗は格段と減る。

やはり慣れないことをすると、緊張を伴い、ミスも多くなる。逆に日常習慣となっているゲームのボタン操作や、自転車の乗り方をミスするだろうか。本当に慣れるというのは無意識にその動作が出来るまでに行うことなのだ。

是非、真似ること慣れること意識して学習し、きちんと定着を図ってほしい。

 

これは子育てでも同様で、子どもに何かをさせたいならば、言葉で伝えるのではなく、同じ事をやってみせて、子どもに真似をさせることが必要である。まぁ、この話は改めて・・・

 

コメントは停止中ですが、トラックバックとピンバックは受け付けています。