面白いことに、歴史という科目は苦手な人ほど「暗記する量が多くて大変です」といい、得意な人ほど「歴史は暗記科目じゃないですよ」という。(たまに例外もいる。)これはどういうことなのだろうか?
それは、歴史を授業で習う前の経験値が物語っている。面談で歴史が得意な生徒にその理由を聞くと「親の影響で昔から大河ドラマを見ていました」とか「親が歴史好きなので、よく第二次世界大戦の話を聞かされたり、京都に旅行すると、一所懸命、お寺などの説明をしてくれるんです」と言ったエピソードを聞かされる。最近では「ヘタリアというマンガが面白くて世界史が楽しいんです」と理由を述べる生徒もいる。
長田は数学の先生をしているが、学生時代一番得意だった科目は日本史である。その理由を今考えてみると、小学生のときに図書室の学研の「日本の歴史」や「人物伝」を紫式部以外全部読破したことだろうと推測される。小学6年生の自由研究でも高校受験レベルの年表を作っていた。
もちろん、文化史あたりは暗記をしていたが、それでも暗記が苦になるようなことはなかったし、理由をつけて繋げながら覚えてていたので楽しかった。
中学時代毎日のようにラジオ英語を聞いていた、現在大学4年のOGがいる。修学旅行で彼女のスピーチを聞いていたが、本当に綺麗というか滑らかというか感動した。やはり、毎日聞くと自然と身につくのだろう。
このOGを含めて、帰国子女の生徒は、英語の文法問題を解けるが、それをクラスメイトに教えることができない、というケースが多い。それは日常で使っているからであり、「理由」を考えたことが無いからだろう。
長田が面談で言うセリフ。
「listenのあとに続く単語は何?」
ほとんどの生徒は「to」と答える。
そして「何で、同じ聞くのhearにはtoが続かないの?」
と聞く。まれに答えられる生徒もいるが、大半は答えられない。
これを日本語に置き換えて
留学生が
「私は日本が大好きです」で、「は」と「が」を逆にして
「私が日本は大好きです」といったらおかしくないか?
と尋ね、その留学生にどんなふうに教えてあげるかと聞く。
結局日本人の私たちは日本語を話すときに文法を考えながら話すことはない。今まで使った経験値で処理をするのだ。
頭の良い生徒には、かなりの割合でこういうタイプがいる。長田はそういう思考型でも暗記型でもない楽修型を「経験型」だな勝手に命名している。
数学が好きな子の多くは、そろばん(今はいないか・・・)や数独で育ったのではないだろうか?長田は切符(これも死語になりそうだ・・・)の4つの数をどうやって10にするかにはまっていた。
他にも長田は家族で「さんずいの漢字をいくつ書けるか?」や「『かん』と読める漢字を書け」という勝負をしながら、漢字の成り立ちを覚えていった。
今、考えると親と一緒にお風呂にはいったときに「100まで数えたら湯船から出てもいい」というのは、数字の数える練習だったんだろうな・・・。
この経験型というのはただ机に向かって勉強をするのではなく、日常の中に遊び感覚で取り組むことに意味がある。さらに、子供が自らの意志で行うことはほとんど無いので、親のサポートが必要だろう。日頃から子供と一緒にいるときに、あっ、こんなゲームはどうだろう?とか考えている必要がある。もしくは子供が興味をいつ持ってもいいように準備をしなければならないだろう。
長田も小学生のとき、歴史が好きだったこともあり、図書室に置いてなかった人物伝を買ってもらった記憶が今でも残っている。
本を読んでいる生徒は国語ができる。これは本来おかしな話だ。たいていの場合、読まれているのは小説だ。しかし、評論文もなぜか解ける生徒が多い。それは文章を読むという経験値が高いからだ。
成績が良い生徒というのは当然ながら楽修量が多い。しかし、それは机に向かって教科書を読んだり、問題集を解くことだけを指しているわけではない。日頃からその科目に関連したことに触れて考える時間も、もちろん遊びながらでもOKだ。
だからこそ、親のするべきことは様々な経験をさせて、子供が何を興味を示しているかを観察する必要がある。もしくは、自分で「~させたい」というものがあれば、キッカケは遊ぶような感覚で、負荷をかけずにさせる必要がある。
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