究極の説得力。その1

食で身体に栄養を!

本で心に栄養を!与えよう!

ということで長田が好きな本の好きなコラムを紹介します。

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究極の説得力 ~人を育てる人の教科書~

究極の説得力 ~人を育てる人の教科書~

  • 作者: 平 光雄
  • 出版社/メーカー: さくら社
  • 発売日: 2014/01/10
  • メディア: 単行本(ソフトカバー)

 

 1:教師の基本は「与える」精神にあり
若い教師。ヒロシが職員室でぼやいている。
学級の子どもたちが自分の思ったように動いてくれないようだ。
ヒロシ 「どうしてレイコたちは、係の仕事ができないんでしょうかねぇ…
職人教師「……」
ヒロシ 「何度も何度も言ってるんですけどねー。困ったもんですよ」
職人教師「……言い方に問題はないのかな」
ヒロシ 「それはないですよ。ちゃんと話してますし、彼女たちも仕事の大切さはわかってると思 いますよ」
職人教師「じゃ、やっぱり言い方に問題があるんだよ」
ヒロシ 「そりゃないでしょう」
職人教師「そりゃなくてもそう思えだよ。うまくいかないのを相手のせいにしたとたんに『プロ』 の看板を下ろすことになるんだよ」
教育とは、子どもたちの幸福に関与していく営みである。 幸福とは、端的にいえば幸福感を感じている状態のことだ。では、その「幸福感」はどんなとき に感じられるだろうか。 たとえば何かを手に入れたとか高い地位に就いたとかいった,所有欲や名誉欲などが満たされた ときにも幸福を感じることはあるだろう。
しかし、どんなに恵まれた状況であっても、それが定常 的な状態になってしまったら、幸福感は消える。 幸福感は、 「前よりよくなった」 「前よりうまくなった」などのより良好な状態への変化があった ときに感じる。 つまりそれは、自分自身に向上的な変化が起きたときにもたらされる感情である。 その変化の実現プロセス 成長に深く関与していくのが教師の仕事である。教師の日々の言動は, すべて、この目的に集約されるべきものだということだ。
このことをまず強く自覚したい。 そのために教師が常に忘れてはならない大切な心得は、 「相手本位」。何よりも優先すべきは子ど もたちの成長を促し、幸福を実現させるという心得である。
たとえば「話し上手」を自認する教師がいる。流暢に、理路整然と話せる。どうだ!とばかりにしゃべり、悦に入る。しかし、子どもたちの心には何も届いていない。言葉は彼らの耳の先をかすめて 流れていっただけ……ということはよくある。
こうした事態は、話の効果の決定権は相手にあるのだという自覚が足りないために起きる。 自分でどんなにうまく話せたと思えても、内容が相手にきちんと伝わっていなければ,全くその 目的を果たしてはいない。話の効果は相手への浸透度合いによって決まる。自分で自分の話の良し 悪しを決めることはできない。その効果を決めるのはすべて聞く側なのだ。
だから、相手本位という意識をもたない話は独り相撲となり、子どもたちの幸福に寄与するような力をもつことはない。
日本における「話し方教室」の草分けである江木武彦先生は、 『仕事とは何だ』 (マネジメント社) の中で、 「仕事とは与えて、与えて、与え抜くこと」と書いておられるが、教師の仕事こそまさにそ のものだいえる。 「与える」とは自分のもっているものを相手のために差し出すことだ。ただ「与える」にも常に相手が受け容れやすくなるようなさまざまな工夫が必要となってくる。 ここでいう工夫とは、小手先のコツといったものではなく、 いわば全人格を賭けた試行錯誤。そ れが相手本位の精神である。
相手が、より受け容れやすくするにはどうしたらいいか。 教師の意識は常にそこにあるベきである。叱るにも助言するにも、褒めるにも、勧めるにも, 説得するにも、どうしたら子どもたちが受け容れやすいかを考える。受け容れやすいものを与えれば 成長は加速する。
ヒロシに伝えたい教師がすべき話の仕方について続ければ, 「いいことを普通に言う」だけで、相 手が聞き容れてくれることは稀だろう。 その子にはどんな語彙を使ったら聞き容れやすいか、どんな語調で語ったらいいか、いつ言った らいいか。どこで言ったらいいか そもそも(話をする者として)どんな自分であったらいいか …..等々、いつも「相手本位」の視点で工夫を重ねていくのが教師の仕事だ。
教師は、客観的にはどうであれ、安直に子どもたちのせいにはしないという覚悟をもって、うま くいかなかったら、何がいけなかったかを反省し、改善していく。常にそんな心構えが必要だ。プ ロは、まず自分のどこに問題があるのか考えるべきなのである
武道にも長けた思想家で、教育関係の著作も多い内田樹氏は言う。
すべての言葉は、それを語った人間の、骨肉を備えた個人の、その生きてきた時間の厚みによっ て説得力を持ったり、持たなかったりする。正しかったり、正しくなかったりする。 「誰が語っても真実であるような言葉」というのももちろんありますでしょう。でも、それは 「昨日は南の風が吹いて、雨が降りました」というようなストレートニュースだけです。少しで も価値判断を含むものは、政治記事にしても、経済記事にしても、そのコンテンツの重みや深 みは、固有名詞を持った個人が担保する他ないと僕は思うのです。                
内田樹「街場のメディア論」 (光文社新書)
話が伝わらなかったときは、相手のせいにする前に、まず自問してみる。 なぜ自分の話には説得力がないのか。なぜ言葉に重みや深みがないのか。自分に足りないのは何 かと。
すると、決して話し方の巧拙だけが問題ではないことがわかるはずだ。 内田氏は、 「生きてきた時間の厚み」の問題だという。つまり、今まで自分はどんな生き方をして きて、今どんな人間かということだ。熱く生きたことのない者に、熱く生きよと言う資格はない。言っ たとしても言葉に重みはない。
また実学的に言えば,説得力には話し手の魅力という問題が付きまとうことも知っておかねばならない。 魅力の有無とその由来を論ずるのは難しいが、僧侶にして作家の故·無能唱元氏の次の言葉はそこに1つの視点を与えるものだろう。
魅は、与によって生じ、求によって滅す
魅力とは、人を惹き付ける力のこと。
つまり、相手本位の「与える」精神の人は人を惹き付ける魅力をもち、自分本位の「求める」 「奪 う」精神では魅力がなくなるということだ。
魅力ある人が語れば,その言葉に惹き付けられ、説得力を感じるというのは事実だ。 子どもに話をし、成長を促す. つまりは人を育てることを仕事とする教師としては、言葉に説得力を増そうとする以前に、自分に魅力をつけなければならない。
そのためには「与える」精神を根底に養っておかなければならないのである。 こうして「与える」精神は、全教育活動を貫くバックボーンとなる。教師がその大前提とすべき「受 け止める」 という教育活動においても、 一見逆のようには思えるが、 「与える」精神がその奥になければならないのである。 そのために全人格的な工夫をするのだ。 それが教師の基本とすべき「与える」精神である。
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今回はこの本から5つのコラムを紹介します。
いちおう教育者向けですが、人を育てる立場の人は必読の書です。

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