究極の説得力。その4

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ということで長田が好きな本の好きなコラムを紹介します。

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究極の説得力 ~人を育てる人の教科書~

究極の説得力 ~人を育てる人の教科書~

  • 作者: 平 光雄
  • 出版社/メーカー: さくら社
  • 発売日: 2014/01/10
  • メディア: 単行本(ソフトカバー)

 4:アドバイスほど安易なものはない
ヒロシ 「……だそうです。あのお母さんも、苦労されてるんですね」
職人教師「で、おまえさん、何て言ってやったんだい?」
ヒロシ 「お気持ちはわかります。でも,そこは我慢を重ねることで、きっと道は開けま すよって……」
職人教師「いや,そりゃウソだろ。だいたいおまえ、そんなに我慢できないだろ」
ヒロシ「だって何かためになること言わないわけにはいかないでしょう」
職人教師「そんなつもりで言った言葉が、彼女の役に立つと思うか?」
教師にとって、他人への「アドバイス」は日常的な行為といえる。的確なアドバイスは、人を励まし 育てるのに大いに貢献する。とても有益なものだ。若いヒロシは、家庭的な悩みを相談してきた保護者に、いかにアドバイスをするかという問題 で 頭を悩ませているようだ。心ある教師の誰もが直面する問題だろう。
その際に,多くは「いかにいいことをいうか」 「いかにうまく言うか」ということに関心を向ける。 そして、毒にも薬にも、何の参考にもならないような無味乾燥なアドバイスをしてしまう。
アドバイスを求められた教師が、よい内容を巧みに言うことをまず第1に考えるのは当然じゃな いかと思われるかもしれないが、ここで大きな前提を忘れてはいけない。 「アドバイスほど安易なものはない」という前提だ。 つまり、自分を棚に上げてしまえば、他人にはどうとでも言える。 ただし、それは理想論上のことで いつかどこかで聞いたような美しく聞こえのよい言葉を並べたところで、相手には何も与えるもの がない。
与えるものはないのだが,言えることは言えてしまうのだ。滔々と、誰にでも簡単に。
 こんな子がよくいる。お節介焼きだけど、自分のことはさっぱりできていない子である。 その子を評して、 「あんなによく気がつく子なのになんで自分のことはできないのかなぁ?」など と言うことがあるだろう。 実は、そこに秘密などない。答えは簡単、自分の始末をするより他人の世話をすることの方が楽 だからである。だから、そういう子がいるのは当たり前なのである。
 人のアラは誰にでも見える。その指摘も実に簡単だ。ただし,そのアドバイスに説得力があるかないか。自分にはとうてい出来もしないようなことを得意げに語るなどという無責任 、言い換えれば自分を棚に上げてのアドバイスは、この子のふるまいと同じだ。
 たとえ内容は正しくとも、そこに説得力はない。 特に、すぐに成果が出るものではない「教育」という分野には、 一種どうとでも言える面がある。 ましてや自分に批判が及ばない安全圏にいる人のアドバイスは要注意である。 もうその発言に対する資格審査をする人がいないからだ。ほとんど自慢話か昔話と思ったらいい (ある類の政治家がよく教育について語るのは、自分の任期中に決して成果が出ない、すなわち責任 を問われることがないからだという皮肉な意見もあるくらいだ)” 自分を棚に上げ,立ち位置不明の「よいアドバイス」をする人は多い。
 二十年来通った話力総合研究所の講座では、 「言葉の魔術性」ということも学んだ。 言葉は、語感や言葉遣い、耳当たりのよさなどがその内容に優先して使われ、かつ受け取られる ことが多い。そして、印象としてその言葉が美しい、素晴らしいものであれば、それを口にしてい る人間の本体から離れ、独り歩きしてしまうこともある。
 つまり,言葉はその実 を表すものでは ないということだ。 例えば、 「放任」に過ぎないものを「個性尊重」と言い、 「統率力のなさ」を「自主性の尊重」 と言い換え、 美しく、批判しようのない言葉で認めたくない事実を隠ぺいしてしまう-... 言葉にはそういう面があることを熟知しておく必要がある そして、私がその講座全般を通して学んだことは, 「言葉が人を動かすのではない。人が人を動か すのだ」ということで あった。
 泥棒だって、口では「盗みはいけない」と言える。しかし、彼のその言葉にまともに耳を貸す人 がいないのは当然だ。 盗みをしない人,あるいは自らの盗みを後悔している人にしか、その言に説得力はない。 アドバイスは最も安易な行為だと自覚し、常に自分で自分自身の立ち位置を確認し,その言葉に 対する資格審査をすることが大切だ 。
話力総合研究所において私が師と慕った天前輝正先生が、ある人の講演を聴いて言ったひと言が 忘れられない。  「あいつは、本来自分に言うべきことを(自分を棚に上げて)他人に言ってるんだ」 それはパワフルな講演であったが、どおりで、大きな声や身振りの力説の割に心に響くことが少 なかった。
なるほど、本来の聴衆は「その人自身」であったか。 その言葉は、教師をしながらいつも耳元にある もちろん、ヒロシへの「アドバイス」を主旨とするこの本にもあては この本を貫く自戒は、
できもしないことを、やったこともないことを、実感がこもっていないことを, 一切書かない。
もちろん、そうは書いても「話の効果の決定権は相手にあり」は全てに通ずる基本。この本の主 張にも適用されるわけで,そう思っていただけるかどうかは私にはわからないが。 ともかく、 私を知る人たちに「あんなヤツが言ってることなんか」と思われたら,それでもう お仕舞いなのである。
また、天前先生のもうひとつの教えは「自分に痛い講義をせよ」であった。 自らの苦しみを抜けていないよって血の通わない「安直な正義 や「よい話」を語るなということだ 。
思い出したくもないような過去の失敗や恥から得た教訓などは,その人しかできない、切実感の ある血の通った話となる。先に披露した学習発表会の大失敗のことは、今でもあの作文を読んだ瞬間の凍るような気持ちを想起させ、正直に言えば思い出したくないことだ。
 しかし、それを敢えて 引き合いに出すことで、単に「さまざまなタイプの子の思いを受け止めるべきだ」と述べるより、 血の通った言葉となったはずだ。 血の通わない、 一般的で安直なアドバイスは、相手にとって益がないだけでなく、害をもたらす 危険さえある。
そうはいっても、自分の体験には限りがある。しかし、教師には伝えるべきことがたくさんある。 当然、体験もなく,他の経験からの類推も及ばないことがらでさえ話さねばならないことも多い ただ、その際にも、 「この話は、実体験がないことなのだ」との自覚をもって、細心の注意をはらい つつ話すべきだ。
それは、たとえば、死別の悲しみを経験したことも無い若い教師が、可愛がっていたペットに死なれてふさぎこんでいる子どもに接するとき。分かったような慰めや励ましは、時に心により深い傷を負わせることになり、非常に危険かもしれないということだ。
ヒロシにもそんな自覚と自戒をもってほしい。
そして、もう1つ気をつけたいことがある。
アドバイスは「してあげる」のではなく、「させてもらっている」と考えたほうがいいということだ。滔々とアドバイスしている人の満足そうな顔を見ればわかる。
確かにアドバイスをするときは、人はたいてい自分自身に対する無力感を払拭することができる。「オレも大したヤツだ。」と思うことが出来る。(「正義の怒り」にもそんな要素があるが)
先に挙げた子どもは、嬉々として他人の世話を焼く。その理由は(本人が意識しているか否かはともかく)、「世話を焼かせてもらう」ことで、自己有用感を増大させようという、つまりは、自分のためだ。世話を焼いてやる相手はそのための道具ですらある。同様に一歩間違えば、アドバイスも、自分が「得る」「奪う」ための行為になるのだ。

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