「本を日頃から読んでいる生徒は国語の成績が良い」と言われている。これは正しいのだろうか。
面談などで、国語の成績が良い生徒に秘訣を聞くと、やはり多くの生徒に読書の習慣があった。しかし、読書の習慣があるにも関わらず、成績が芳しくない生徒もいる。この差は一体どこにあるのだろうか。
私自身の経験を少し話したい。中学生や高校生のときは良くもなく悪くもなくといった感じだ。ただ、文法が得意だったので、中学時代は漢字や文法で点を稼ぎ、高校時代は古典で得点を伸ばしていた。長田の口癖は「自分の思ったのが正解でいいんじゃないの?」である。まぁ幼稚だった。
変化が起きたのは読書を始めてからだった。6,7年前に国立文系の生徒だった「あんな」に数学を教えていたのだが、まぁ、長田から数学をボロクソに言われていたからだろう。「先生、国語なら負けませんよ。勝負しましょう!」と言われて、早稲田や上智の国語の問題を解いた。(ちなみに、英語は向こうが完全に上。偏差値70を超えていました。そして、あんなは最終的に早稲田に進学しました。)
久しぶりに入試問題を解いたのだが、信じられないことに国語力が上達していた。なんと表現していたらいいのだろうか。昔は1行1行をしっかり読んでいたのが、全体の構成を考えながら読むことが出来た。自動車の運転にたとえれば、教習所時代はボンネットあたりを見ていたのが、免許を取得して先の車の動向に気を配れるようになっていた。ということで8割ぐらいとって、最初の勝負は圧勝だった。その後も高得点を連発できたわけではないが、対戦成績はあんなのほうが若干良かったぐらいで、この勝負によって、本を読むと国語の成績が上がるということを実感できた。
今ほどではないが、中学・高校時代も読書を長田はしていた。主に西村京太郎の十津川警部シリーズでそれ以外だと横溝正史も少々読んでいた。ただ、そのおかげで、成績が上がった実感はない。ミステリーがいけなかったのだろうか。
今、こうやって考えたときに出てきたのは、本を読んでいても国語の成績が伸びていないケースは、偏った読み方をしている場合だということ。要するに好きな作家だけ読んでいる人である。
当たり前のことだが、国語力の一番大事なところは、筆者の意見を素直に受け止めることである。文章を読みながら「そんな理想だけ語られても事実は違うよ」や「筆者は・・・て言っているけど、私は~って思う」と相手の意見に耳を傾けられない人がその文章を読み取れるわけがない。答えを書くときに自分の意見を反映させては
正解にたどりつくには偶然に頼る以外ないだろう。
だから、国語力を高めるには、色々な人の意見を受け止めるために、幅広いジャンルで読書をする必要があるのだ。そして、本を読むときに、自分の意見と合わないからといって、途中で読書を止めるのではなく、「(私には理解できないけど)、そういう考え方もあるんだ。」筆者の意見を受け止める必要があるのだ。
長田は今、たくさんの文章を読んでいる。たとえば、生徒のコラム。あれを読むと、本当に十人十色という言葉が当てはまるし、それのおかげで生徒の性格理解に役立つ。
また、「売り場からベストセラーを作る!」を合言葉に始まった本屋大賞にノミネートされた作品も全部読むようにしている。特に、女性作家の女性を主人公にした小説は「全く理解できない!」と思うことが頻繁にあるのだが、「理解できないけど、女性はこういう感情を持つんだな」と素直に受け止めるようにしている。そしてこれが生徒指導に役立ったりする。何がどこで繋がるか全く分からない。
ということで、長田的には、本を読むと国語の成績が上がるのは本当である。ただし、偏らないように。もし、子供に読ませる場合も、できるだけたくさんの本を読ませよう。可能なら自分で買うべきだが、難しいなら図書館や、縁ある人々と貸し借りをしていくのがいいだろう。
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