ゆうと。1

夏休み中という事で、卒業生のコラムでも。

今回はゆうと。

なんか上智に進学したそうだね。会えていないけど・・・。

能動的楽修論

 なにより初めに断っておくが、わたしは今から、「青ペンで書かれたことは記憶しやすい」だとか「寝る前の暗記は定着しやすい」だとかいう、細かい小手先のテクニックを紹介するつもりはない。その訳は二つある。これから述べるその訳が一種の、私が考える「楽修テクニック」に通じるものである、ということを念頭に置いて欲しい。

まず一つに、わたしが、もうそれらの事柄は、先によって皆、おおよそ既知であると推測するからだ。いわゆる小手先の細かい「楽修テクニック」は、今日のマンカインドがその気になれば、気軽にインターネット文献などから、一つの「情報」として得ることは、極めて容易だ。もちろん、学生身分である私たちにとって、このようなトピックがある程度聞き慣れたものであることを加味して、の話だが。

 そして、もう一つの理由。これが本題であり、本質である。それは、小手先の「楽修テクニック」を論ずる以前に、その「楽修」に如何様にして取り組むか、ということが本来の「楽修テクニック」なのではないか、と私は思うからだ。「青ペンは暗記に良い」などという類のことは、本質的な「楽修の改革」(勉強能率を上げることを議論の目的にしたときの、その起爆剤なるものの呼び名を改革とでも呼ぼう)には成り得ず、「楽修」に徹する際の我々の適切な「スタンス」が、真の「楽修の改革」をもたらす鍵であると思うのだ。(ここで念の為に記しておくが、先に寄稿された方々が挙げられていた楽修に関する衝撃的な事実たちは、大した意義を持つものではない、と主張したいわけでは断じてない。)現実的に、青ペンを用いて暗記科目の点数がどれだけ伸びるかと想像したとき、それが我々に、等しく著しい変化を作用することを当然のごとく期待できる、とは思えないだろう。しかし、当人にマッチした根本的な楽修への「スタンス」を身につければ、あらゆる面で何らかの向上がみられることだろう。それが劇的な進化・変貌を遂げたとき、我々は未知の自分に遭遇することになる。これは、決して過剰な比喩表現ではないと思う。

 さて、ここまで冒頭では、各々に合った楽修に対する「スタンス」を身につけること、それこそが一種の非常に有効な「楽修のテクニック」に成り得ることを述べた。それではその「スタンス」とは如何なる像であろうか。展開していこう。

“学校で学んだことを一切忘れてしまった時に、なお残っているもの、それこそ教育だ。”

 独の天才物理学者の言葉である。その真理は彼にしか知り得ないが、わたしはこう解釈する。

 学校で学ぶもの。つまり受動的心理で学んだもの。生徒に強制的に課される宿題や、授業で学ぶ、興味も無いコーシー・シュワルツの不等式。寝不足ながらも執念で聴いた朝礼の講話。これらの、受動的に学んだ事柄が、自分の頭から全て排斥された後に、浮き彫りになって残るもの。それが教育の成果、つまり楽修の成果である。そして残されたそれらは、全て能動的心理で学んだ事柄であると私は思う。自らが真に必要であると感じたとき、能動的心理が働き、記憶に鮮明な跡をつけるのだ。

 医学部志望の私にとっては、コーシー・シュワルツの不等式は理系の受験生として必須である。文系の人間ではどうだろう。やはり、そこに何らかの必要性や好奇心といった能動的心理が存在しなければ、記憶には蓄積されにくいだろう。したがって楽修は、それが常に能動的心理に基づいたアクションでなければ、大きな成果は得られない、ということだ。さらにいえば、その能動的心理が大きければ大きいほど、期待できる成果も同時に比例するのだ。やらされている、だとかいう感覚が少しでも心に侵入すると、何故か悪魔のような倦怠感に襲われることは、誰しも経験しているだろう。

 仮に、課せられたタスクを受動的にこなせたとしても、そこで得たものは、能動的になって達成した場合の方が、遥かに大きな利益をもたらすに違いない。まず楽修を起こす前に、自らの心理状態を見直すのだ。それだけで、新たな世界が開拓できるだろう。受動的心理が邪魔をするならば、いっそ、そのタスクはひとまず放棄しても良いと思う。中途半端にタスクをこなしたところで、それは単なる精神と肉体の浪費、すなわち停滞・後退である。前進は望めない。可能な限り、能動的心理に傾くように自分をコントロールするのだ。むしろ能動的心理が傾くようなタスクを選別していくのも一つの手ではあるが。

何にせよ、今一度自らを見直すことが不可欠だと思う。思春期という多感な時期こそ、確立しつつあるアイデンティティに磨きをかけて、能動的楽修に励むべきだ。

最後に。これを書くのは期末試験期間である。自らが書こう、と思ったそのときに書いたのだ。私にとって、なんとも言えない受動的心理で望む期末試験を中途半端にこなすより、能動的心理が爆発したこのタスクにプライオリティを置いたのだ。駄文ではあるが、私自身にとってこの機会が、楽修を見直すことに繋がったのは事実であるし、多くの人に私のアイディアを共有、実践してもらえれば幸いだ。

〜 一年の感想 〜

一学期、二学期はあまり肉体的にも精神的にも余裕がなく、提出することも、ブログを読むことすらもしていませんでした。

冬休みに、宿題として読まなければならなかったので、そこでやる気になった、といった感じです。

なんにせよ、提出するコラムは「能動的楽修論」で最後?になるかもしれないので、前回よりは少し時間をかけて書きました。

文章としては、どうなんでしょう。
自分は、構成とかは何も考えずに思ったまま筆を走らせるので、読みづらいものになっているかもしれません。今一度機会があれば、しっかり構成を練って、より読みやすいものにしたいです。

そして、長田先生。一年間ブログ更新お疲れ様でした!

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