病気が教えてくれたこと

私は自称『駒込に一番長時間いる教員』である。最近は研究日も朝から登校して校門立番するようになった。そんな私だが、11年前に2週間ほど学校を休んだことがある。

 冬休み中に行った晴海の勉強合宿後に私はウイルス性結膜炎を患った。大晦日、目覚めようとすると目やにが大量に発生して、目を開けなかった。鏡で確認すると目が今までに経験したことのないほど充血していた。年が明けて4日に眼科へ行くと、ウイルス性結膜炎と診断され、インフルエンザ同様に法定伝染病のため2,3週間自宅療養するように告げられた。

幸いなことに始業式まで1週間ほどあったので実際に学校で授業できないのは10日程度だった。私は

“今回の病気は神様が与えてくれたプレゼントだ”

と気持ちを切り替えてのんびりすることに決めた。

だが1週間も経つと家で閉じこもる生活にも飽きた。目も日常生活に支障をきたさなくなったので、早く学校に戻りたかった。しかし、伝染病のため、医師からの登校許可をなかなか得られず、イライラする日々を過ごした。

知らないうちに、

“これは神様が与えた試練なのか?”

とさえ、思うようになっていた。

そんな退屈な日々で、

“何故、ゆっくり過ごせる機会を自ら放棄しようとしているのだろうか?”

という疑問が起こり、自分にとって教師という職業が、駒込学園での生活が掛け替えのないものだということに気付いた。職業に就くということは、私にとって生活していくうえでのお金を稼ぐ手段ではなく、人と社会を結ぶ架け橋だったのだ。私は生徒に数学を“教えてあげている”のではなく、“教えさせてもらっている”ことを悟った。

かつては、労働時間や賃金によって不平不満をもらしながら仕事をしていた時期もあった。しかし、今は“自分がしたいから遅くまで働いているのだ”、“他の人は関係ない。沢山の仕事をこなしているのは自分が望んでいるからだ”と愚痴をこぼさず働くようにした。このような姿勢になってから、仕事が今まで以上に楽しくなった。8年前から研究日も朝から来るようにしたが、辛いどころか楽しくて仕方ない。何事も心の受け止め方で変わるものだということを知った。(それ以前の研究日は長田にとってゆっくり寝られる日で午後から登校していた。)

 私にとって、本当にストレスがたまるのは一人でじっとしていることだった。

長田は今まで色々なストレスをもらってきたが、この病気以後はほぼ無くなった。病気以後の方が働いているのにも関わらず。

この翌年から学級通信を始めることになるのだが、それも自分がしたいから。自分のやりたいことをやりたいだけやる。普通ならワガママなだけなんだけど、長田の場合は他の人にとっても有益なことが多い。(いや、生徒は作文を書くことになったので、嫌なことを1つ増やしちゃったけどね。)

よく病気を境に、それこそ、生死を彷徨うようなときに、人生観が変わる人が多いと聞いた。長田はたかだかウイルス性結膜炎だったが、それでもこの3週間は人生のベクトルを変えるものになった。

コメントは停止中ですが、トラックバックとピンバックは受け付けています。