卒業文集。2

手抜きですみません。

卒業文集に載せたコラムです。

(高3担任の時は複数のコラムを書くんです。)

 

向き合う

 

今年の高三学年のスローガンは「向き合う」である。学年主任が学年集会で意識して用いていたが、皆は気づいていただろうか。

 

 

それはさておき、「自分と向き合う」ことはかなり難しい。というのも、この言葉は決して鏡で自分の姿を見なさい、という意味ではない。言い換えるなら、「自分らしさとはなにか?」であり、自分が何者かを探す旅のようなものだ。

 

 

実は自分らしさとは何か、長田自身は気づいている。

 

 

外見が怖くて、常に偉そうにしていて。だけど、継続力はすごくて。そして教師という職業は天職であると言えるぐらい、教師生活を楽しんでいて。だから、プライベートは皆無で。とても知り合いを部屋にあげることはできなくて・・・。

 

 

しかし、皆はなかなか自分らしさを発見できないようだ。特に今年は高三ということで推薦入試での志望理由書や活動報告書の書き方を指導したが、なかなかに自分の長所と短所を把握できていない生徒が多かった。

 

 

その推薦入試の指導のために読んだ本で、自分らしさとは他者との比較であり、自分らしさを語るためには過去の自分のイベントでの思い出を語る、つまり、自分が過去に決断した行動にそれは隠れていると書いてあった。

 

 

そこで気づいた。「自分と向き合う」とは今、目の前にあるものに対して一所懸命に打ち込むことだ」と。一所懸命取り組んでもなかなか達成できないことがある。そのときに周囲の人と一緒に取り組んで協調性を育む。または一人で我慢強く取り組むことで、根気強さを育む。はたまた諦めて、新しいことに取り組む切り替え力を育む。その目の前のものが大きければ大きいほど、自分らしさが分かるのではないか。

 

 

長田クラスでは、体育祭と玉蘭祭は全力で取り組むことをモットーにしている。私がよく言うのは「体育祭や玉蘭祭で学んだことこそが社会に出た時にとても役に立つ。」ということだ。適当にやれば適当な結果に終わり、特に成長することもない。なぜなら自分でできる範囲でやるからだ。しかし、一所懸命にやればやるほど、壁にぶつかり、その壁を乗り越えるために周囲と協力したり、新たな解決方法を模索したり、と器を広げることになる。自分には何ができて、何ができないのかが理解できる。限界という壁を突破して新しい限界を迎え入れることが、自分を知るということに繋がる。そう考えると受験勉強も一所懸命に行うことにも意味があって、そこで自分と向き合い、自分らしさを掴むことができるのだと感じる。

 

 

結局、何が言いたいかというと、自分と向き合うとは、目の前にあるものに一所懸命取り組むことであり、それはすなわち、

 

 

一隅を照らす

 

 

ということだ。

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