依存症はなくならない

今月はこちらの本のコラムから

世界一やさしい依存症入門; やめられないのは誰かのせい? (14歳の世渡り術)

世界一やさしい依存症入門; やめられないのは誰かのせい? (14歳の世渡り術)

  • 作者: 松本俊彦
  • 出版社/メーカー: 河出書房新社
  • 発売日: 2021/08/24
  • メディア: 単行本

 時代が移り変わり、価値観が変化する中で、依存症という病気の捉え方もまた大きく変わりつつあります。依存症という呼び方すら変わる可能性があります。実際、アメリカの医学界は、すでに薬物依存については「依存」という言葉を使うのをやめ、「物質使用障害」と呼ぶようになりました。

 

 「依存」という言葉は、「依存性のある薬物を繰り返し摂取すると、馴れが生じ、同じ効果を得るために必要な量がどんどん増えていく、そして急にやめると離脱症状(リバウンドのような症状)が出る」という現象を指しています。ただし、これは、動物実験で分かったことにすぎません。これだけでは説明のつかないことがあるのです。

 

 例えば、がんの激しい痛みをしずめるために医療用麻薬を使うことがあります。けれども、その患者が依存症になり、病院から麻薬を盗んだ、もしくは売人から不法に入手したことなどという話は聞いたことがありません。医療用麻薬は、症状によってかなりの量をある程度の期間使い続けます。だから、馴れも生じるし、量も増えていきます。それでも医療用薬を使っている患者を依存症とは呼びません。アトピー性皮膚炎などの治療に使われるステロイドという薬もまた、使い続けるうちに馴れが生じるものの1つです。内服薬として継続的に使っていた場合、急にやめることは難しく、ゆっくりと少しずつ量を減らしていかなければなりません。しかし、だからといってこの薬を使っている患者が依存症として扱われることはありません。

 

 第3章に書いたように、依存症の仕組みは脳のメカニズムにあります。それはそれで理解しておくべき事実です。しかし、複雑な社会の中で生きる僕たち人間はそれだけですべてを説明しきれるほど単純なものでしょうか。僕は、そうは思いません。脳の仕組みを解明するだけでは、依存症という病気の核心には辿り着けません。歪んだ人間関係の中で心に痛みを抱え、それを放置したまま薬物あるいは特定の行為で一時はしのぎを続け、いつしかコントロールできなくなって生活が破綻してしまう。これが依存症の全貌です。つまり、依存症という病気は、僕たちがどんな人間関係を築き、どんな社会を作っていくのかということと直結しているのです。

 

 僕は、依存症がこの世からなくなることはないだろうと考えています。絶望的になっているわけではなくて、人間はどんな時代も、何かしらよりかかるものを必要としているような気がするのです。

 

 面倒な単純作業をしなければならないとき、昔聞いた歌をいつのまにか頭の中でぐるぐるとループしていること、ありませんか? それから授業がどうにもつまらないときに、ノートを取っているふりをしながらラクガキしたり、わけもなく図形を塗りつぶしたり。多くの人は身に覚えがあるでしょう。人間はストレスを感じる状況に置かれたとき、それをやり過ごすために気を紛らわせるとするものなのです。そして、僕たちの祖先はそうやって気を紛らわせるのにうってつけのものを見つけました。アルコールやカフェインをはじめとする薬物です。やがて社会が複雑化したとき、それを乱用する人が出てきてしまったわけですが、何かで気を紛らわせるという行為は僕たちの人間の知恵でもあります。

 

 考えてもみてください。依存症として問題視されているものとされていないものの線引きってどこにあるのでしょうか。現代では依存性物質とされているタバコは、かつて儀式や治療に使われるものでした。大勢の人が日常的に楽しんでいるアルコールが、違法だった時代もあります。大麻が違法とされる国もあれば、合法とされる国もあります。ゲーム依存は問題になるのに、どれだけ本を読んでも問題にならないのはなぜでしょう? その時代、大人たちが気にくわないものを依存と称して突き放しているようなきらいさえありま す。110時間以上勉強して、勉強以外のことが疎かになったとしても、「勉強依存」とはいいませんしね。1980年代、あれほど多かったシンナー依存は、不良文化の衰退とともに、激減しました。インターネットができればインターネット依存が生まれ、スマホが浸透すれば、スマホ依存が問題になります。

 

 結局、「〇〇依存」と名前を付けて問題になる総量は、どんな社会でも、どんな時代でも、それほど変わらないのかもしれません。ある依存症がなくなったところで、別の依存症が生まれるだけ。だとしたら、何に依存しているかということよりも、根本にある生きづらさのほうに目を向けて、それを生み出す社会の在り方を疑問視するべきです。

 

 

中略

 

 

 

 こうした負の連鎖を少しでも減らしていくためには、根本的な問題に向き合わなければなりません。虐待やいじめをなくしていくことはもとより、暴力や支配の背景には、貧困や失業、過激な受験戦争や少子化などがあります。貧困家庭を支援したり、経済格差を正したり、社会の仕組みから見直すべきなのだろうと思います。

 

 そうやってできるだけの工夫を重ねたうえで、気を紛らわせるツール、すなわち薬物やゲームやギャンブルといったものを撲滅するのではなく、うまく付き合っていく。そうできたらいいなと思います。もちろん、度を越して使ってしまう人はゼロにはならないでしょう。どんなによりより社会になろうとも、それは難しい。であれば、そういう人が出てくることをあらかじめ想定したうえで、社会を作っておけばいいのです。切り離し、辱め、排除するのか。それとも心の痛みに寄り添い、回復を支援し、もう一度迎え入れるのか。僕は、後者のような社会でなければ、依存症になった人に限らず、みんなが幸せにはなれないように思います。

 

 アメリカでは、アルコール依存症や薬物依存症から回復して社会に復帰した人たちは、人々からリスペクトされます。有名な俳優やミュージシャンたちが依存症からの回復を公表し、自助グループにも積極的に参加しています。そのことが、依存症への誤解や差別を減らし、また回復の途中にある人を勇気づけています。

 

 僕は、日本でも、依存症から立ち直った人が一般の人に触れあう機会がもっとあったらいいのにと考えています。皆さんにも、ぜひそういう人に会ってもらいたいです。学校で行われている薬物乱用防止教育では、「ダメ。ゼッタイ。」というキャッチコピーのもと、一度でも薬物に手を染めたら人生が台無しになるかのように伝えられています。しかし、事実は違います。こうしたやり方は、依存症とは縁のない子に差別や偏見の種を植え付けます。一方で自分は依存症ではないかと不安になっている子、すでに依存症になっている子を深く傷つけます。

 

 依存症にはならないほうがいい。その理由はこの本の中で繰り返し伝えてきたつもりです。ただ依存症になったからといって、人生おしまいではありません。人は失敗することがある。だけど、そこから立ち直ることもできる。そういう希望を持っている社会のほうがずっといいと思いませんか?

 

 

最近は、こういう人たちに対して厳しい世の中になったと思う。

もうちょっと、このコラムのように支援できる社会になってほしいなと感じる。

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