楽しく修める

「子曰、学而時習之、不亦説乎、有朋自遠方来、不亦楽乎、人不知而不慍、不亦君子乎。」

 

 

 

書き下し文⇒『子曰く(しいわく)、学びて時に之を習う、また説ばし(よろこばし)からずや。朋遠方より来たる有り、また楽しからずや。人知らずして慍みず(うらみず)、また君子ならずや。』

 

 

 

口語訳⇒「先生(孔子)がこうおっしゃった。『物事を学んで、後になって復習する、なんと楽しいことではないか。友達が遠くから自分に会いにやってきてくれる、なんと嬉し いことではないか。他人が自分を知らないからといって恨みに思うことなどまるでない、それが(奥ゆかしい謙譲の徳を備えた)君子というものだよ。』」

 

 

 

と孔子の『論語』にも「学習」の記述がある。そう学習とは本来楽しいものであるはずだ。しかし、ほとんどの人には、どうやら学習は楽しくないらしい。生徒と面談をするとそう答えるケースが非常に多い。

 

 

私は高校生活まで、学習を苦痛に思ったことはなく、正直楽しかった。特に数学は「難問を解ける喜び」に楽しみを見出していたし、歴史では「何故そのような事件が起こるのか?」と探求するのが面白かったので、将来は数学か社会の教師になろうと思っていたくらいだ。

 

 

何故、本来楽しいはずの学習が多くの人々にとってつまらなくなるのだろうか。辛いからだろうか、強制されるからだろうか、それとも理解できないからだろうか。

 

 

もし辛いからといって消極的だというならばそれは理由にならないと思う。なぜなら、その辛さを乗り越えたあとに得られる大きな何かがあるからだ。例えば、クラブ活動の練習は単調であり、運動部ならば体を酷使するので間違いなく辛い。しかし、多くの生徒がそれを我慢しながら、場合によっては楽しみながら辛い練習を乗り切っている。それは辛い練習の延長上にある勝利という達成感のためかもしれない。もしかしたら、一緒に困難を乗り切ったときに芽生える友情故かもしれない。理由は人それぞれにあると思うが、このように辛くても楽しく活動することは十分可能だと考える。

 

 

強制されるからというのは非常に納得できる理由である。いくら親や先生が「あなたのために」と言っても、自分が納得できないことはしたくないだろう。だからこそ、私は最近出来る限り、「勉強」という言葉を使わないように努力している。勉強とは「勉めるを強いる」である。好きこそものの上手なれ、という言葉もあるが、好きなことは強制されなくても自ら進んで行うものだ。

 

 

理解できないからというのは半分納得できる。もし私がロシア語で書かれた本を読めと言われたら一日で挫折するだろう。だが、簡単にできるものを行うことのほうがもっと苦痛である。もしも毎日、九九や小学校で習う漢字の書き取りを命じられたら、容易にできるが絶対に行わない。毎日漢字の書き取りをさせられるなら、ロシア語の解読に挑戦する。それは、学ぶ楽しさというのは「できないことができることになったときの喜び」だと思うからだ。

 

 

私は年間で200冊程度本を読む。「凄いですね」と驚かれることも多いが、自分の中では全く大変ではない。すでに習慣になっているというのもあるが、新しい知識を獲得できることに喜びを感じているからである。

 

やはり、学習活動は楽しむべきだ。そう思って「学」を「楽」と変えてみた。だが、「楽習」という言葉はいくつかの本に出てきていたのでオリジナリティを出したいと思い、「習」を「修」に変えた。

 

 

この「修」だが、「修める(おさめる)」という読み方もある。この読み方の漢字には他に「収める」、「納める」、「治める」がある。共通するのは、全て自分の内側に取り込むこ とを表しているということだ。熟語で表したときも「収入」、「納得」、「統治」となり、「修」も「修行」や、表彰状に「優秀な成績を修める」と書かれている。つまり「修める」とは自分が獲得(インプット)した知識を成果に表す(アウトプット)ことができたことを示す言葉なのである。

 

 

私はこのブログでも「学習」ではなく「楽修」という言葉を頻繁に用いるが、それは学習(真似て、反復する)だけでは不十分で、さらに楽しく積極的に、前を向いた姿勢で臨み、獲得(インプット)した知識・技術を頭脳・体内に修めてそれを表現(アウトプット)できるようになってほしいという意味だと解釈してほしい。

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