やっとここまできました。

駒込で教員になった2年目、つまり2000年に初めて担任を経験した。2年7組、初担任ということもあって色々な思い出がある。長田の頭髪指導に頭にきて、朝のSHR後に早退した「あさみ」。昼休みに友達とじゃれあって頭を廊下にうちつけ、救急車で運ばれた「やすみつ」。年が近いということもあるが(それでも10歳差)高校2年だけの付き合いなのに、長田を呼んで同窓会を行ってくれる。本当に思い出の詰まった濃い1年だった。

そんな個性が強い2年7組に「くにひろ」という生徒はいた。他の生徒がいろいろ事件をおこしてくれたので、その1年間に限って言えば、くにひろの印象はほとんど残っていない。数学が苦手だったからよく教えてあげたことや一部の女子とじゃれあっているのを注意した(からかった?)ことぐらいだろうか。

強いてあげれば、文化祭で教室に神社を製作するために賽銭箱を借りにいったことだろうか。(初担任のときから玉蘭祭に対する意気込みが半端じゃないと今更ながら思った。)

(余談だが、くにひろの実家は飛不動で、航空関係者や宇宙関係の人が正月に御参りにくることで有名である。渡辺謙主演の映画「はやぶさ 遥かなる帰還」でも撮影場所として利用された)正直双子の彼らより、父親のほうが印象に残っている。くにひろのお父さんは博識でパソコン雑誌のアスキーを立ち上げたグループの1人だったらしい。

くにひろはお世辞にも成績は良いとは言えず、赤点ギリギリだったと思う。理系を選択したのは車のデザインをしたくて工業デザイン学科志望だったかららしい。しかし、母親曰く「長田先生の一言で『やっぱり芸術科に行きたい』と言い出したんですよ」とのこと。「将来、くにひろのデザインした車をプレゼントしてくれよ」や「将来有名になったら個展とかに招待しろよ」などと言った覚えはあるのだが、芸術学科に方向転換させた一言は未だに思い出せないし、くにひろも「それ、母親が適当につくったんですよ」と言っている。真相は分からずじまいだが、彼は理系にいながら東京藝術大を目指すことになった。数学が苦手だというのに・・・。

翌年、私は高3に進級できず、高校1年の担任となった。くにひろと話す機会が少なくなったが宮西先生からいろいろな話は聞いた。予備校に通い画力をメキメキとあげたこと。芸大は難しくても私大には受かるだろうと。しかし、彼は残念ながら現役で合格できず浪人となった。 そして1浪した年、今年こそは間違いないと聞いていたのだが、多摩美術大学を受験する日、駅で倒れて救急車で運ばれたと聞いた。

2年目の大学受験はこれで終了となった。また、受験のちょっと前にお父さんが心筋梗塞で倒れたとも聞いた。(亡くなっていません。寒暖差に気をつけながら元気に生活しているそうです)双子の弟は音楽系の専門学校を辞めて実家を継ぐことを決意したそうだ。そして彼は2浪することになった。芸術系では2浪は珍しくないと聞くが、それでもお父さんの病状などを考えれば、本当に色々と心配だった。

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ここでくにひろとは音信不通になった。どこかの美大に合格したとか、美術系の予備校でアルバイトしているとかいろいろな情報が錯綜した。同窓会で仲良くじゃれあっていた女子に聞いても「全然分かりません」ということだった。私は仲の良かった卒業生にも年賀状を送っているが、くにひろの名前をいつしか名簿から消していた。


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それから10年ほどたった、2012年の冬、一枚の葉書が届いた。

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「祐」が「裕」になっていることなんてどうでも良かった。
やっとここまで来ました。

 

この一言だけで泣けた。

あぁ、くにひろは俺との約束を覚えていたんだ・・・と。この「やっと」にどれだけの苦労が詰まっているのだろうか、それを考えるだけで泣ける。

もちろん、宮西先生と一緒に彼の個展にいってきた。
下がその写真。

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折角だから花を贈ってみた。

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くにひろは2浪した後に多摩美術大学の工芸学科に入学したそうだ。そこを首席で卒業し、長野のあづみ野ガラス工房で働いていたということだった。今はLithmaticという会社でデザイン関係の仕事をしている。(現在は出向と言う形でかなり大きなところに勤めている)

 

さて、最後の余談ですが、このコラムを、くにひろにも読んでもらいました。いろいろと誤字脱字や長田の記憶違いを直してもらったのですが、最後に今までずっと長田にとって謎だった真実を教えてもらったので、それを掲載します。

『ちなみに、、、グランツーリスモやる⇒かっこいい車無い⇒俺作る!⇒工業デザイン科らしい⇒理系と勘違い⇒実は美大いかなきゃダメ⇒授業の芸術選択は音楽。これが正解です。それでも理系に残ったのは、単純にあのクラスが好きだったのと、数学と音楽が好きだったからです。マジ自由すぎる。。。。』

実は高2のときに「文系クラスに移れば?」と勧めたのですが(昔は高2から高3に進級するときに文系理系の変更が認められていた)、数学が赤点ギリギリなのに「理系でいいです」と言っていたんですよね。そしてこれ読んで思い出したけど、そうだ、くにひろは音楽選択だった!

しかし、シレッと書いてある「単純にあのクラスが好きだった」という言葉、初担任でとにかく我武者羅に頑張った長田としては最高の褒め言葉です。

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