究極の説得力。その3

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ということで長田が好きな本の好きなコラムを紹介します。

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究極の説得力 ~人を育てる人の教科書~

究極の説得力 ~人を育てる人の教科書~

  • 作者: 平 光雄
  • 出版社/メーカー: さくら社
  • 発売日: 2014/01/10
  • メディア: 単行本(ソフトカバー)

 3:こだわりの学級経営は意外と弱い
 「こだわりの店」 「店長こだわりの◎◎」というのが雑誌でもテレビでも大流行である。ヒロシも近 くの店に行ってきたようだ。
ヒロシ 「昨日、駅前のラーメン屋に行ってきました」
職人教師「美味しかった?」
ヒロシ 「はい。やっぱり『オヤジこだわりのとんこつ味』って言うだけありますね。職人のこだ わりは、 すごいですね!ところで,教師職人さんの学級経営のこだわりは何ですか」
職人教師「そうだな。できるだけ『こだわりをもたないこと』にこだわってるかな」
最近では,その店や人の独自の工夫や美意識を 「こだわり」と呼んでもてはやしているわけだが、 こだわりとは本来よい意味で使う言葉ではない。 「こだわり」の語義は「気にしなくてもいいようなことを気にすること」であり、こだわったその結果、本来は気にしなくてはいけないことに気が回っていないという状態になる。つまり 、全体を見るこ とができなくなってしまうのだ。
武道には 「居着く」という言葉がある。種々解釈はあるようだが、あることにこだわり,意識が停滞してしまったがゆえに目の前の相手に集中できない状態を言い,最も避けるべきことともされ ている。
剣術家·作家の野中 文氏は言う。
剣は居着くことを嫌う。居 着きを起こしているとき、心は「死に体」になっている。死に体になった目には物が正確  に映らない 人の心も見えなくなる。自分自身も見えてこない。
野中日文「頭の整理法教え ます」 (騎虎書房)
教師にとっても「こだわり」は決してよいものではない 。
「僕にはこだわりがあって、絶対こういう学級をつくりたいのだ」という教師は一見情熱的な 雰囲気があり,目的意識があって、とてもいいように思える。 しかし、これを他人から見てそう思うのはまだしも、自分自身がそのように思ってしまうのはま ずい。武道の例と同様 、そのこだわりによって、目の前の子どもたちが見えなくなってしまうからだ。
目の前の子たちが、どんな性分で,どんな状況にいて,どんな欲求を持っているのかを見つめる 目が曇り 「自分の理想」 、「自分の目標」に到達することばかりに躍起になってしまうからだ。 もちろん、全体も見えなくなる。
たとえば、自分自身が行動的なスポーツマン、プロ野球やJリーグ大好きで盛り上がるのが大好 きというタイプであれば、自分の性分にかなった「活発で,心一つに盛り上がる集団」を理想とし やすい。 そんな彼が教師になった以上こうした集団を何が何でもつくるんだというこだわりをもった とする。
 ところが,その教師が担任した学級が,たまたまスポーツや派手な活動より静かに読書したり思 索したりするのを好む子どもの多い学級だったとする。 思索に入りがちな子どもは、ひとつ行動するにもいろいろな欲求や不安を持つ複雑な 面を もっていることが多い。簡単に「心一つに」などという気持ちにはなれない。
 むしろ「なぜそれを やらなければならないのか」についての、子細にわたる丁寧な趣旨説明がなければ動かないと う 子も多い。 そうした性分を持った相手を無視して、十分な説明もせず、同意も得ず、教師のこだわりを実現 するためのごり押しをしていく……活動的な教師が陥りやすい事態だ。 当然、うまくいかない。 「心一つに」と簡単には思えない子どもたちの不満の温床になる。教師も なぜ動かないんだ!と不満になる。双方に不幸な話だ。
 実は私も、若い頃こうした不幸な事態を招いたことがある。学習発表会で劇の指導をしていた。自分で脚本を作り、自分が黒澤明かつかこうへいにでもなっ たような気分で熱い演技指導をし、本番は大成功!!給食の時間には牛乳で乾杯もした。「大成功パ ンザーイ、乾杯!」と。
 翌日、作文を書かせた。当然,多くの子が成功の喜びを綴っていたが、こんな文面を目にして, 一気に凍り付くような気持ちになった。
「やっと学習発表会が終わった。喜んでるのは先生だけ。私はあんなことしたくなかった」
懇切丁寧な趣旨説明や合意獲得の努力をせず、自分の「理想の学習発表会」に突っ走ったがゆえ の大失敗であった。何よりもその子に悪いことをしてしまった..….。なぜ,私は彼女の気持ちに気 付けなかったのだろう。いや、どこかでうすうす感付いてはいたが,自分の突き 進む道からそれて しまいそうな予感に怖れをなして、単なる「子どもの不平不満の顔」と切り 捨ててしまったのかも しれない。その程度の器でしかなかった。
教師が目指すべきは,こだわりより「融通無碍」、つまり「何が来ても、まずは受け止め,どう でも対応してやろう」という腹の据わった心構えだ。この子の不満や反対意見もまずはきちんと受 け止めてからスタートし なければいけなかったのだ 自分の理想はあってもよい。その実現のために教師になったという人も多いだろう。しかし,そ こに無理矢理目の前の現実を当てはめていくような指導は厳に避けるべきだ 。
まずは受け止めること。子どもたち一人ひとりの思いや欲求を受け止め、性分や状況を知り、そ の上で「その子たち1人ひとりの集まりとしての集団 の理想を描くべきだ。 それは、理想像が毎年変わっていて当然だということでもある。 そして、何も初志貫徹が素晴らしいわけではないことをも肝に銘じていたい
 教師の初志が子ど もたちの幸福に寄与するとは限らないからだ。 現実に即して、ゴールイメージはあれこれ変わることもあるだろう。またそれに を耐え得ることが 融通無碍だ。最初に掲げた1点に向かっていくような、雄々しいイメージは要らない。
 かつてミニバスケットボールの監督をしていたこともある。最初のうちは、 自分の理想に合わせたチームづくり をしていた。私の好み に合ったスピーディな 展開の、オフェンス中心のチームが理想だった。自分の理想イメージの1点を追求したチームづくり。選手は駒だ。
うまくいかなかった。強くもならなかった。選手の動きも固く、何となくチーム内に殺伐とした雰囲気も感じるようになった。相手は小学生。なのにこのチームの有り様は、なにか指導理念が根本的に間違っているのではないか…… 。
 ある時そこに思い至り,発想を変えた。 「俺の理想に合わせろ」というチームづくりではなく、「そ の年のメンバーに合わせたつくりにした。お となしいが粘り強い子たちが多いときは、粘り強いディ フェンス中心のチームに、勝ち気な子が多いときは鋭いカットイン中心のチームに。 その子たちの個性や持ち味を最大限に活かすことを最優先して、メンバーに応じて毎年全く違っ た戦術を考案した。メンバー個々の持ち味、独特の強みが発揮しやすいポジションや動きを生かし, それを集結させたチームだ。
作戦もそれに合わせて毎年ガラッと変えた。 「 センタープレーヤーを3人にする」というような傍 から見れば奇策としか思えないような作戦も、ごく当たり前の作戦になったさらには1度決めた 作戦も、子どもたちの様子を見ては途中で変更することが何度もあった。そうした試行錯誤を繰り 返しながら練習を重ねることで、個々の力の相乗効果が出るようになる。 以前よりうんと強いチームになった。それ以上に皆が個性を存分に発揮し、活性化した。「駒」発 想のチームに比べ、個々の能動性が全く違うからだ。 教師が融通無碍に腹を括らなければそうした集団はできない。
ヒロシよ、 「こだわり」は殊の外弊害多く、むしろ「こわばり」に通ずるのだよ。

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