究極の説得力。その5

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究極の説得力 ~人を育てる人の教科書~

究極の説得力 ~人を育てる人の教科書~

  • 作者: 平 光雄
  • 出版社/メーカー: さくら社
  • 発売日: 2014/01/10
  • メディア: 単行本(ソフトカバー)

 第2章1:好かれなければならない。
説得力をもつために。
ヒロシ 「子どもたちがなかなか話を聞いてくれないんです」
職人教師「そりゃ困ったね」
ヒロシ 「もっと話術を磨かないといけませんよね」
職人教師「うん、まあね。でも、それだけじゃ事態は改善できないね話術に秀でた人がすなわち 説得力のある人、というわけではないんだ」
教師に一番大切な力は、説得力である。 説得力がなければ、どんな言葉も相手を動かさない やる気を出させるにも、励ますにも、叱る にも説得力がなければ効果はない。 つまりは、相手に向上的な変容を起こさせない。「幸せ」に寄与 できない。説得力がすべての教育活動の前提である。
説得力とは何か―,ヒロシは「話し方」、つまり技術の問題だと思っている。もちろん、それも 大切だが、それは説得力を構成する1部だ。ほんの1部と言っていいかもしれない。 では、何が最も大切か。
「相手に好かれることである。」拍子抜けしただろうか。しかし、人は好きな人の言うことならきく。 相手が嫌いであれば、 いくらいいことを言っていてもきかない,ききたくない。と言えば納得がい くだろうか。それが現実である。実学である。
たとえば、アイドルたちのコンサートを見てみたらいい。 年端もいかないアイドルの、 (失礼ながら)稚拙な話術をもって語られる1言1句をファンは、大 群衆の中でもひと言も聞き逃すまいとして集中して傾聴しているではないか。そして,たとえその言葉は月並みなものであってもダイレクトにファンの胸を打ち、心を動かしている。
その理由はひとつ。聴衆はその話をするアイドルが大好きだから、である。
内容的には、きっとヒロシの方が「いいこと」を言っているだろうし、話し方だってまさか、つ いこの前まで子どもだったにわかスターの未成年には負けていないだろう。しかし 聞いてもらえ ない。なぜなら、話し方、話の内容以前に、好かれていないからだ。
 「聞いてくれない」理由の奥底には,そんな問題がきっとある。 そのことを直視しよう。嫌われれば聞いてもらえないのだから、説得力はない。  説得力を得点化すれば、マイナスということさえあるだろう。 こんな川柳だってあるくらいだ。
嫌なヤツいいこと言うから嫌なヤツ
「嫌なヤツ」が「いいこと」を言うとますますイヤになってしまう、というような面が、世の中に は厳然としてある。良いか悪いかではない。まずはその人のことが好きか嫌いかが重大要素なのだ。 その現実を認めない限り、説得力の問題は前に進まないのである。
「なかなか話を聞いてもらえない」 「優れた話術がほしい」と嘆くヒロシよ、何としても好かれなけ ればならないのだ。説得力をもつために。もちろん、八方美人になれというわけではない(そんなことをすれば、その優柔不断さや抜け目 のない利己心が露呈して、ますます嫌われるのは目に見える)。 しかし、人前に立ち人を動かす以上、抵抗のある言葉かもしれないが「好かれる努力」は必須である。
好きではない、ゆえに説得力のない教師に教えられる子どもは不幸になるからだ。
好きになれない教師に毎日会い、長時間顔を見,声を聞き、説教されるのは苦痛以外の何 でも ないだろう。結果、彼ら彼女らは学校という,本来成長へと向かうべき時間空間を無駄にする。さ らには、その教師の話のノイズ(「えー」 「あの-、 」などといった 話の間をつなぐどうでもいい ような口癖)の数を数えたり、唾の飛び方を観察したりといった鬱屈した楽しみに走るようにもなっ てしまうかもしれない。
学校が、本来の目的である幸福追求の場ではなく時間潰しの場と化してしまうのだ。 そうした不幸な事態を招いてはいけない。 さらに教師ならぱ、好かれる以上に目指す境地もある。 「尊敬される」である。尊敬されるように なれば、全ての言動が重みを持ち、説得力は格段に増す 尊敬する人に毎日会え、話が聞けるのは大いなる喜びだ。そんな教師になることができれば、指 導効果はさらに上がり,子どもたちの幸福の実現もぐっと近いものになる。それが、教師が目指す 最高の仕事なのだ。
ここで、 「自分を尊敬させるなんてそんな傲慢なことができるか」 「自分は尊敬に値するような人 間ではない」 (と考えた方が謙虚な素晴らしい人間ではないか)という反論が聞こえてくるような気もする。
しかし、その考えは謙虚でも何でもない。最高の仕事のための方策が「尊敬されることである のなら,教師たるものそれを目指すべきで,それに向けて真摯に 努力を重ねることこそ、謙虚な姿 勢であると言えるだろう。 どうやら、すぐに自分の非を認めて謝ることをもって謙虚であるという風潮があるようだ。特に 最近の教育現場ではその傾向が強いように思う。教師も管理職などから「まずは謝れ 」と指導される。
しかし、誤解を招く言い方かも知れないが、教師はそう簡単に謝ってはいけない。何を傲慢なと 思われるかもしれないが、すぐに謝るような教師が尊敬の対象になれるとは思えない。 本当に非があれば、謝るのは当然だ。誠意をもって謝る。それ以外にない。
しかし、たとえば保 護者が強い態度でクレームを寄せてきたとしても、それが教育観の違いに過ぎず、自分に非があっ たとは思えないのであれば、絶対に謝るべきではない。 もちろん、興奮した相手である。謝った方がその場は早く収まるだろう。しかし、その行為は、 その場の解決と引き替えに「尊敬されない」道を選ぶということになる。中にはそれで、謙虚な先 生だと思ってくれる人もいるだろうが、たいていは、謝るようなこと をするなと思われるのが世間 の常だ。その態度を見て、教師への念が(怒りから)軽蔑に変わる人がいたとしてもおかしくはない。
子どもたちのためにも、踏みとどまるところでは踏みとどまる気概が必要だ。そうでなくては、 尊敬される教師にはなれない 重ねて言う。まずは好かれなければならない さらには尊敬される教師を目指すのだ。それが。 自分の言葉に説得力をつけるための道である 教師という職業の根幹に関わる問題だ。なにがなんでも説得力を ことは簡単ではない。しかし、 もたねばならない。

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