比叡山研修に代わる衝撃

比叡山研修は、駒込高校において受験を除いた学校行事という括りの中では、きっと一番辛い行事と感じる人が多いのではないでしょうか。食事の時間にも一切気は抜けず、夜中に山道を歩き、長時間の睡魔に正座で絶え…私が高校1年生のとき、普段の現実とはかけ離れたその空間に、ひたすら衝撃を受けた覚えがあります。

 

そんなことを思い出しながら過去のコラムを読んでいたら(探したら)、昔の自分が書いたコラムを見つけました。

(CHANGE(注:長田の学級通信ブログ)より一部抜粋)

坐禅止観や写経は集中力との闘い、法話はとにかく正座との闘い、回峰行はなにより体力と精神力との闘いで、どの修行も辛かったことに変わりはないのですが、僕にはもっと辛いと思ったことがあります。それは、「比叡山」という“異次元空間”とも錯覚させられるような場所で2泊3日過ごしたことです。食事の際に音を立ててはいけないという食事作法、テレビもゲームも携帯もない現実とかけ離れた生活、そして休憩時間などもなぜかリラックスのできないあの空間・・・、全てが今までの常識を真っ向から否定されたような思いでした。(中略)家に帰ってきてから「当たり前ということがいかに有難いことであるか」ということを、身をもって感じました。

(以下略)

 

これ以上のことはない、と言わんばかりにその衝撃を語ろうとしている自分がいます。

そして思い出すこと、防衛大へ入校して間もない頃の約1年前。毎日呼び出しに怯えながら、常に時間に追われての生活で、何かするたびに上級生から怒鳴りつけられ、夜には明日の自分を想像できない恐怖を抱きながら、絶望の起床ラッパで一日が始まり…(注;これは昨年までの旧指導体制によるものです。現行では新指導要領に則って、理性ある指導を行っております。)正直、比叡山研修よりも防衛大に入校したときに受けた衝撃の方が比にならないほど大きかったのは言うまでもありません。

 

非日常を経験することで、その対比によって日常への有難さを知ることができた、というのが比叡山研修でしたが、それに対して、突如として非日常が日常になり、かつての平穏な日常はただの思い出として封じ込められる、という防衛大への入校…むしろ衝撃なんて言葉では表現できない、絶望を通り越して、自分の理解の範疇を超える域でした。

 

比叡山研修から早くも4年―。今から比叡山研修に行ったなら、①食事中に気が抜けない→むしろ上級生に変な気遣いをしなくて楽、②夜中に30km歩く回峰行→軽装備で70km(防衛大から靖国神社まで)徹夜で歩くor 完全武装(合計20kgくらい)で歩く20kmの方が楽、③テレビもゲームもない生活→いつものこと、④リラックスできない→当たり前、⑤怒鳴られまくる→日常茶飯事、とまあこんな感じで、きっとさほど辛く感じないのではないかなあと思います。笑

 

比叡山研修に行った4年前には、その出来事が大きな山でしたが、大学受験、そして防衛大で1年間を乗り切った今では、その山がとても小さく見えます。(ちなみに現時点で過去最大といえる山は勿論カッター期間です。)人間は、こうして一つ一つ山を越えていくことで次第に成長していくのかなあ、と思うと同時に、さてこれを如何にして一学年の指導に生かそうかと考えながら、自分の呼び出しに来る一学年を待っている、今日この頃の芹澤です。

 

 

長田

芹澤の場合は本当に比叡山研修以上の体験をしているから当然だと思うんだけど、

他の人も、

今、社会人や大学生になって、もっと精神的に辛いことがあったりすると思うんだ。

あんなの理不尽じゃないよ。社会のほうがもっと理不尽だよ。

 

コラムを書いてくれてどうも有り難うございます。

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