俯瞰する力

国語こそ、本来考えなければ身につくことがない教科であるにも関わらず、学校の定期試験では、ノートを丸暗記して、漢字を書き取りして臨むという本来の目的から外れた楽修をする教科ではなかろうか?

10年前までの長田も、受験国語については、「評論文って出題者の独りよがりの文章でしょ?」とか「自分の思ったのが正解でいいんじゃないの?」とか「出題者はその作家に会って、本当にそういう意図だったのか確認したのか?」そんなことを口走っていた。本当に恥ずかしい限りである。

長田は読書によって、国語力を大幅に上昇させたが、今回はもう少し詳しく説明しておきたい。

 

繰り返しになるが、長田は読書によって知らないうちに国語の問題が解けるようになっていた。だから「国語の力を上達させるには読書だよ」としか言えなかった。そのあと、俗にいう長田文庫、昔は過去問と数学の問題集を置いていたが、現在のようなすべての教科の参考書を置くために、いろいろな参考書・問題集にも目を通し、国語に対する考え方がさらに深まった。

まず、出口汪のシステム現代文を読み、その中の「答えは文中にある」という当たり前のことを知って感動した。考えてみれば文中に書いていなければ、受験生に解答の根拠を推測しろということになる。それでは、クレームの嵐だろう。こんな当たり前のことに気づいてから文章をくまなく探すと解答を見つけられるようになった。国語に対する偏見が剥がれ始めた瞬間だった。

次に私は数学の教師にもかかわらず、放課後に小論文補習を始めた。そこで生徒に論文は序論・本論・結論で書くことを指導した。序論は問題提起で、本論は自分の意見を対比や比喩を交えて展開し、結論は新しいことを書かずに違う表現を用いながらまとめる、ということを説明しながらふと閃いた。

「もしかしたら、授業や試験で読む評論文もそのような構成になっているのではないのか」と。直ぐに国語の教科書や入試問題を解いてみた。まさにその通りであった。

今までの長田は一文ずつ追う形で文章を読んでいたのだが、急に全体の構成を意識しながら読めるようになり、作者の意図をものすごく理解できるようになった。例えるならば、今までは平面上で目の前のものだけを見ていたのが、空を飛ぶことを覚えて上からその平面を俯瞰するようになったといったところだろう。
そして極めつけは振り出しに戻って、読書である。松井秀喜の「不動心」に出会ってから新書を読むようになり、入試問題にも出題されるような、上田紀行、外山滋比古、河合隼雄の本も読むようになった。そこで、著者の考えが決して独りよがりではなく根拠に基づいていることを痛感した。

 

それ以来、序論を読むだけでその文の訴えたいことがわかるようになった。そして本論では対比を用いるのか演繹なのか、帰納法なのか、はたまた自分の経験による具体例なのか、どんな味付けで自分の意見を納得させていくのか。そして結論でどんなまとめ方をするのか、そんな繋ぎ方を意識して、ある程度の目処をつけながら読むことが出来るようになった。
これは小説も一緒で、これから新しいスタートを切るときは朝の風景を描写してなど、読者を納得させるために背景にまで拘っていることが分かるようになると、筆者の言いたいことがよりリアルに掴めるようになっていた。

 

国語は英語のように主語、述語、目的語など考えずに自然に用いられている。たぶん、あまりにも身近すぎるために私たちは国語の学習方法を考えられないのだ。しかし、国語力を養成する方法はある。それは普段から読み書きをすることだ。TVや音楽など視力や聴力に依存しすぎることは危険である。本を読んで想像し、文章を書いてきちんと自分の意思を伝える練習をするのである。

 

それが国語上達の遠回りのようで最短の楽修方法である。

 

卒業生で古典などを得意としている生徒が言っていたセリフ「源氏物語って所詮恋愛小説だし、漢文だって、基本故事成語ですよ。単語が分からなくたって、だいたいこんな感じでしょ?っていうのは掴めます」、これが正解かどうかは別にして俯瞰する力があることだけは間違いない。
私は正直なところ、学生時代よりも今のほうが明らかに国語の能力が高い。それは、本を読んでインプットし、学級通信を発行してアウトプットしているからだ。特に受験対策の問題集を解かなくても、そういった授業を受けなくても国語力を上げることは可能である。

 

まぁ、受験国語にはテクニックも必要なんだけどね・・・。

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