数年前にこの本を読んでから、
長田の担任としての指導、
数学の教師としての指導方法は
変化し始めた。
この本の一節にこんなのがある。
「教育という言葉は英語ではエデュケーション、つまり引き出すという意味である。
だから、本来の教育は引き出すことを主眼とすべきなのに、どうも日本の教育は教えることに終始しすぎるきらいがある。学校の授業も、先生が答えを教えて、生徒はそれを暗記するという傾向にある。今の生徒は答えだけを欲しがり、答えを導くプロセスには全然興味がない。
しかし、本来の教育では、答えを導き出すまでのプロセスが大事なのだ。自分自身がいろいろ考える。そのプロセスが大切なのだ。先生は答えを出すためのヒントを与えるだけで、答えを出すのは生徒自身に任せなければならない。ヒントを与え、答えを引き出す手助けをするのが教育である。
だから美術館でも、『これは国宝だからすごい。重要文化財だからすごいものです』と国のお墨付きや他人の評価を押しつけることは良くない。『この作品は、こういうところが評価されて、国宝になっています』というふうに、幾つかの事実をヒントとして、提示はするが、しかし、その作品を素晴らしいと思うか、好きかどうかはそれを見た人が自分で判断すればいい。」
そう生徒の能力を引き出すことが教育なのだ。
よって、その引き出しを開くための鍵を増やすことが教師としての使命なのだ。
だから、最近の長田はあまり押し付けない。押し付けるときもきちんと理由を説明する。
まぁ逆に「偉そうに」とか「恩着せがましい」と言われることもあるが。。。
だから、最近の長田はクラスや学年などの集団に向ける言葉と一人の生徒にかける言葉がことなる。
まぁ、逆に「どっちが本当なんだ?」とか「さっきと違うこと言っているじゃないか!」と言われることも・・・
(言われないな、裏でしか・・・苦笑)
先日、卒業生の「ちはる」と話していて思ったのだが、
子供を育てる事に大切なことは体験なのだと感じた。
それは、習い事もそうだが、人との出会いもだ。
沢山の出会いがあって、そこから何を吸収できるか。
愛情を吸収する、知識を吸収する。
協力を知る。技術を知る。
実際に専念するかどうかは別として
沢山のことを経験することが
その子の器を広くするのだ。
もちろん、嫌なことあるだろう。
だけど、それをフォローするのが大人の仕事であり、
それが育てるんじゃないかな?
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