いとへん

日頃から日直日誌や学級通信のための作文で、生徒の文章を読む機会が多いのだが、漢字間違いが非常に多いように感じる。比叡山研修の日誌でも坐禅を坐「弾」と書いていた人が複数いた。

 また日頃、完璧を完壁と、成績を成積と書くのが目立つ。完璧は中国の故事成語で敵国から無事に宝玉を持ち帰った話から、下は玉になっていることを覚えておいてほしい。

 ところで、成績のセキは積ではなくて、何故績なのだろうか。私たち教員は、勉強は積み重ねだから土台をきちんと作らなければいけないということがある。ならば積でもそんなに間違ってはいないのではなかろうか。

 つい最近まではそんなことを深く考えてこなかった。しかし、生徒の学力向上を図る上で物事をそのまま詰め込んでもそれほど向上しないことを知った。入試問題を解けるようにするには、文章題において文章を理解してどの公式と繋げていくのかを考えさせる必要があると知ったとき、成績のセキは績でなければいけないことに気づいた。

 そもそも学習活動における記憶とは脳科学上における神経経路の形成である。例えるなら机と本棚の関係で、私たちは日常では机という短期記憶で物事に対処し、必要に応じて長期記憶である本棚から知識や知恵という本を取り出して正確に物事に対処しているのである。

 付け加えると私たちの脳内は睡眠によって生活で学んだ知識を本棚にしまっているのが海馬という器官である。海馬は生死に関するものを優先して本棚にしまうので、それ以外の学習内容を記憶するには繰り返し用いて海馬に必要だと思わせなければいけないのだ。何事も繋げることが大事なのである。
 
 つまり、学習活動では「糸」をもっと大事にするべきなのである。1つ1つの知識をそのままの点にしてはいけない。点を繋げることによって知恵という線にする。さらにその線を編めばさらに頑丈になる。三本の矢ではないが、糸は絡まれば丈夫になって衣服にも使えるのである。
 
 「糸」を大事にすることは、人間関係でも同様のことが言える。人が大勢いるだけではそれは集団にすぎない。人と人を繋げるには、まず言葉のキャッチボールが必要だ。それは一方通行であってはならない。繋がるためには信頼関係も大事で、そのためにはお互いに約束を守ることも大事だろう。つまり、みんなで一緒に考え、決めたことはきちんと実行に移すべきだということである。そのように統一感をだしてまとまったときに、私たちは絆を深めて1つの集団から1つの組織へと変化できるのだ。
 
 特に部活動においては、そのクラブ名に由来するものが好きで集まった集団であり、人の性格などはそれぞれで最初の時点ではとても組織と呼べるものではない。しかし、その中でコミュニケーションを図り、共通の目的のために人の好き嫌いを別にして取り組むことに意義があるのだ。あの人が嫌い、雰囲気に馴染めないという理由で部活動から退くのは決して良い行動とはいえない。その中で自分が何をできるかを考えて、感情に流されずにベストを尽くしてほしい。これこそが文化祭や体育祭などで私が皆に期待していることである。自分がベストを尽くせば自然と糸は繋がっているのだ。部活動の楽しさとは1つの集団から1つの組織へと変化していくところにあるのではないだろうか。
 
 また、学校という組織においては縦の繋がりも大事である。先生と生徒、先輩と後輩、両親と保護者の繋がりがきちんとしていなければ上手く機能しないだろう。さらにPTAのような幅広い情報網が形成できていればさらにスムーズに事が進むだろう。そして人との縁を大切にできればもっと良い組織になるだろう。

そして、糸を意識する上で大事なのは最後、つまり終わりや結びである。「終わりよければすべてよし」「有終の美」ともいうが、終わり方が中途半端ではいけない。文章で言うならば結論である。しっかりと締めた文を書いてこそ、相手を納得させられるというものだ。特に生徒の文章を読んでたまに思うのが序論と結論が全く異なっているところである。糸を繋げることを意識して文章を書けばきっと意図は相手に届くだろう。
 
 以前どこかのコラムで、人として生きていくためには心を鍛える必要があることを書いたが、さらに人として社会で生きていくためには糸を大事にすべきだと考えている。知識と知識を繋ぎ合わせて知恵となる。いくつかの知恵を編み出したものが経験となる。その経験を縦に繋ぎ合わせたのもが伝統となる。人間関係も心が縦、横、斜めと多くの繋がりを持って縁を大切にすればより多くの経験を積み、豊かな人生を送ることが出来るだろう。本当に「いとへん」の漢字には人間として大事なものを教えてくれるものが多い。

さて、ここで問題です。このコラムに「いとへん」の漢字はいくつあるでしょうか?

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