真似て慣れる

「学習」とは「学ぶ」と「習う」で、その語源は「真似る」と「慣れる」である。クラブ活動に例えて説明してみよう。君たちが初心者として活動し始めたときのことを思い出してほしい。まず、先生やコーチ、場合によっては先輩から基本を教わり、皆は言われたとおりに、見たとおりにそれを真似るはずである。これが「学ぶ」という動作である。

 

しかし、1回教わっただけではすぐに身につかない。そのため、毎日反復して自分の体に馴染ませていく。毎日素振りやシュート練習をしている。当たり前だが、誰もがスイングの仕方やシュートの打ち方などを知っている。それでも反復するのはスピードを高めたり成功率を上げるためである。サッカーやバスケならば味方からパスを受け取って、他の仲間にバスをする際に、1つ1つ丁寧に行っていたら敵が防ぎに来てしまう。シュートも遠くから 打つと中々入らない。言い方を変えれば「慣れる」とは「意識」したものを反復によって「無意識」にできるようにすることである。無意識になればスピードも上がるし、失敗する確率も格段に減る。

 

生徒に話すとよく笑われるのだが、私はフリックができない。「お」を打つときは「あ」を五連打する。パソコンならば、ブラインドタッチできるのだが、スマホは利用しないというか、昔の習慣が染みついてしまって、なかなかフリックを練習しようと思うことがない。

 

私の話はさておき、学習の仕方を皆は分かっていると思う。しかしながら、同じ授業しても差がついてしまう。それは何故だろうか。

 

真似ることが出来ない最大の理由は読解力不足である。「いや、文章ぐらい読めるよ。」、って思うだろうが、実際には読めていない。例えば数学。一人で教科書を読んで問題集を解いて解答解説を読み、テストで80点以上取ることができるだろうか。多くの生徒が教科書に書いてある意味、数学の特殊な記号を読めない。問題集の解説も言葉を最小限にしているので、式変形など何をしているのか理解できないだろう。先生や数学が得意な友達に質問するはずだ。これが、文章を読めないということだ。また、英文でも知らない単語があれば読めない。調べてもいくつかの意味があってどれが正解かを考えなければいけないし、文脈から推測するにしても推測なので誤読する可能性も高い。

 

 

以上のような理由ならばまだいい。例えばこの学年通信を「なんだよ、この長い文章は・・・」と読む前から敬遠する生徒だっている。生徒を指導していて思うのは国語ができる生徒は他の教科も満遍なくできる、ということだ。もちろん好き嫌いの類もあるので一概には言えないが、少なくとも私は、ここ最近国公立理系クラスの担任として、生徒が国立向きか私立向きかは国語の能力で判断している。もちろん読解力と国語で良い点数が取れるかどうかは別問題なのだが、それほど大きな違いはない。

 

 

では、読解力不足をどのように解消すれば良いか。1つには語彙力を増やすことであり、語彙力を増やすために大事なのは読書の習慣である。また、点数を獲得するだけならば他の方法もあるが、それは卒業生の受験報告談を掲載するときに改めて話をしたい。

 

 

次に慣れることが出来ない理由だが、これはいたって明快だ。飽きるからである。言い方を変えると、分かったつもりになって満足するからだ。小学生のときに九九を暗唱したように、身に着くまで反復しないからだ。分かったことで「もう大丈夫」と油断してしまうのだ。上にも書いたが、慣れるとは無意識にパッと反応できるようになることだ。当たり前だが、私は野菜を包丁で切ることができる。しかし、実際に切るときは包丁で手を切らないようにゆっくりと慎重に切る。しかし、プロの料理人は私には決して真似できないようなスピードと正確性で野菜を切り刻んでいく。「てなれたてつき」というのは「手慣れた手つき」である。

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